日本の6人組女性アイドルユニットTOKYOてふてふ(とうきょうてふてふ)の「double」。間奏~Cメロにかけてヴィヴァルディの協奏曲集《四季》より「春」第1楽章のメロディを使用しています。
歌詞の断片からは、感染症の流行によりファンとあまり触れ合えなかった悲しみのような要素も込められているように感じます。
抒情的なメロディを奏でるピアノや暴走寸前のドラム、Bメロの加工された早口言葉、儚い世界観など、どことなく初音ミクの消失ぽい。
TOKYOてふてふは「翔び堕ちル、夢と現実の狭間ノ街並みト」をコンセプトに掲げているそうで、やや過激でアンビバレンスな世界観です。身もふたも無い言い方をすると都会の病んでる系女子。
サウンド面ではハードめな生バンドによるメリハリのあるロックサウンド。特色すべきは抒情的で華やかなピアノと、パンク的なアプローチで手数がやり過ぎレベルに多いドラム。転調も多め。
というわけで、楽曲面でも振れ幅が大きく両価性と激しい感情の揺れを感じる、コンセプト通りの個性的なサウンドとなっています。歌詞は言うまでもありません。
そんなTOKYOてふてふの1stアルバムのラストに収録されている「double」。歌詞はアルバム1曲目の「innocence soar」に対応しているような感じです。
1曲目の「innocence soar」では都会に埋もれ孤独と息苦しさを感じる様が吐露されています。ラストの「double」でも状況はあまり変わりませんが、少しだけ前向きな内容になっています。それを象徴するのがヴィヴァルディの「春」の引用です。
ヴィヴァルディの協奏曲集《四季》は春夏秋冬を音楽で表現しているわけですが、一番初めの「春」第一楽章は、いわゆる「春の訪れ」を描写しています。
「double」では、「春」を引用した間奏の直前に春の季語である「陽炎」を入れていたり、間奏を経て(春を迎えて)気持ちと一緒に視線も上向きになっていたりと、一見唐突に聴こえる「春」の引用をきちんと活用しています。意外に芸が細かい。
歌詞が全体的に散漫&説明不足で解りにくく、「陽炎」のワードも文法的にオカシイ乗せ方をされているので意味は掴みづらいですが、”アスファルトだらけの東京の街中で孤独と後悔に浸っていたけれど、前を見ると陽炎ができていて、そこから空を見上げると春の空が広がっていて、ちょっと前向きな気持ちになれた”みたいな状況でしょうか。
「主人公の心境の変化や明るい兆しの現れ」を陽炎や春の到来で表現しているのかもしれません。「まだ儚いけれど、希望の欠片が熱を持ち、揺らめき立ち始めた」みたいな感じでしょうか。
「春」第一楽章に関して更に述べると、「double」で引用している部分の後に続くのは、“嵐が過ぎ去り、やがて鳥が楽しそうに羽ばたき歌う様”を表現した部分となります。“鳥と同じく羽を持ってはいるけれど、無機質な都会の街並みをひたすら叫びながら翔び堕ちル”TOKYOてふてふの世界感と照らし合わせると、より楽曲による想像の幅が広がりませんか?
そんな「double」により、最後には明るい兆しと春の到来で1stアルバムは幕を閉じる事となります。
他の楽曲でも「もう少し生きてみよう」などのポジティブなワードが所々で登場します。他の部分が詩的であったりカタカナ表記や漢字を多用していたりと解りにくくしている歌詞が多いため、そんな中でストレートなメッセージは、よりくっきりと浮かび上がります。それもまた彼女達のコンセプトである二面性です。
いわゆる”病んでる系アーティスト”は、病んでいる聴き手に共感はさせても、決して最後の一線を越えさせてはいけません。親も安心して子どもに聞かせられる、こじらせ系アイドルです。
2020年リリースのアルバム『impure』収録。一番気に入ったのは、ピアノとドラムが一番暴れまわっていたマイナースピードナンバー「cry more again」。とにかくやり過ぎ。