その他・雑記

映画『メランコリア』考察(ネタバレあり)

はじめに

先日『メランコリア』という映画を鑑賞しました。

とても興味深い世界観とテーマでしたが、やや解釈が難解な部分もあったため、自分の考えをまとめるついでに記事にします。間違っているところもあると思いますが、大きく外れてはいないと思います。

長くなりそうなので、目次を見て、興味のある所からクリック(タップ)してどうぞ。もちろんネタバレありです。ネタバレしかありません。

惑星メランコリアの正体

『メランコリア』を鑑賞するうえで、必ず押さえておきたい部分です。

結論から述べると、「惑星メランコリア」=「鬱の象徴であり、カタルシス」という感じでしょうか。

 

地球に衝突する惑星に”メランコリア(=鬱)”なんていう名前を付けるのはリアリティに欠けます。そのため、この名称はその物体の性質を表していると考えるのが妥当です。“バイキンマン”や”アクダーマ”みたいなもんです。つまり、”現実的な名称かどうか”以上に、鑑賞者に印象付けたいメッセージを名前に込める意図があった、ということです。

それはつまり、映画『メランコリア』自体も同様に、”リアリティがあるかどうか”以上に、“メッセージを解りやすく伝える事”を重要視している「寓話」である。という事です。

 

話を戻しますが、惑星メランコリアが誕生する過程(これは他のパートで解説します)を見る限り、惑星メランコリアは“ジャスティンの抑鬱感情が作り出したもの(カタルシス)”であると考えられます。「鬱の結晶」と言い換えてもいいでしょう。

「カタルシス」というのは、”人の辛い感情を浄化させるためのもの”というような意味です。辛い思いを誰かに話すとか、何か他のことで発散させるとか、泣いたらスッキリしたとかそういうやつ。

そして惑星メランコリアは、映画の作り手にとっても、そして鑑賞者にとっても「鬱の象徴」であり、「カタルシス」でもあります。

解りやすく説明すると以下のような感じです。

ジャスティンにとっての惑星メランコリア

●鬱病に苛まれているのに、結婚式なんかやらされて、挙句の果てには仕事もクビ。結婚も破談。おまけに、家族も碌に私の話を聞こうとしてくれない。誰も私の心に向き合ってくれないし、助けてもくれない。世界は邪悪だ。もう限界!

⇒抱えきれない鬱が、惑星メランコリアを作り出してしまった!

⇒ドッカーン!!

⇒これで私は成仏するけれど、本当は私もこんな終わり方は望んでなかった…。

映画の作り手にとっての惑星メランコリア

●私の心の中に巣くっている「鬱」。クリエイターは、自身の内面を作品に込めて昇華するのが使命。見ろ!これが私の鬱の結晶だ!

⇒ドッカーン!!

⇒芸術は爆発だ!よし。なかなか良い作品ができたな…。

鑑賞者にとっての惑星メランコリア

●鬱で辛い。死にたい。この世界ごと消えてしまいたい。けど、そんな事できないし、映画『メランコリア』でも観よう。

⇒ドッカーン!!

⇒なんだか少しスッキリして、抑鬱気分が解消された気がする。少し気が楽になったなぁ…。

 

冒頭のオープニングは何なのか

『メランコリア』の冒頭では、オペラ『トリスタンとイゾルデ』前奏曲に合わせて、スローモーションで様々な映像が流れます。あれは一体何なのでしょうか?


『メランコリア』は、冒頭の前奏曲(序曲)パート⇒第一部⇒第二部 という構成になっています。

この、[前奏曲(序曲)⇒全二幕からなる本編]という構成は、クラシックオペラの構成と同じです。ワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』は全三幕構成ですが、クラシックオペラにおいて一番スタンダードなのは二幕からなる構成です。

一般的に第一幕と第二幕は違う場面となり、ストーリーの区切りにもなります。

そんなオペラで前奏曲(序曲)が担う役割というのは、”作品全体を包括して、抽象的に表現する”というものです。

オペラ『トリスタンとイゾルデ』における前奏曲の持つ役割も同様です。こちらのサイトなどで解説されています。

前奏曲はオペラ本編とは違って言葉はありませんが、音楽によって作品のテーマや雰囲気、大まかなストーリーなどを表現しているのです。それにより、聴き手を作品の世界に誘う役割を果たしています。

前述の通り、『メランコリア』はクラシックオペラの構成を踏襲しており、前奏曲も同様にオペラの前奏曲を引用しています。

という事で、『メランコリア』での前奏曲の役割も同様の作法なのではないか、と推測されます。

つまり、『メランコリア』のオープニングは、作品全体を包括的・抽象的に音楽&映像で表現しているのです。

要するに、“オペラにおける前奏曲を、映画(映像&音楽)で表現すると、こうなる”という試みです。

ちなみにクラシックオペラでは、前奏曲で使用されたメロディが本編の重要な場面で登場する事がよくあり、音楽的に分析すると、”実は前奏曲が本編の伏線になっていた”という事もしばしばあります。

『メランコリア』においても、本編のダイジェストや伏線、言い換えればネタバレというような内容のオープニングとなっています。オペラの前奏曲もそんなものなのです。

ちなみに『メランコリア』OPのラストで地球と惑星メランコリアが衝突しますが、本編ラストでも同様の事が起こります。そして、本編ラストでも同様に「前奏曲」が流れますが、衝突する瞬間の曲のタイミングは、OPと本編クライマックスで全く同じになっています。

つまりクライマックスの瞬間をもっと俯瞰的な目線から映し出しているのが、OPラストの映像というわけです。まさしく、正しく前奏曲の役割を果たしています

 

ちなみにワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』は”悲恋・心の葛藤・死による救済”などをテーマにしており、それが音楽でも表現されていると言われています。こちらのサイトなどが参考になります。

悲恋・心の葛藤・死による救済。この曲が『メランコリア』のテーマに相応しい事が、よく解るでしょう。

 

 

余談ですが、『メランコリア』と同じ監督が手掛ける『ドッグヴィル』という映画は、もっと古い時代の、バロック時代のオペラの要素と映画をクロスオーヴァーさせた作品です。

具体的に述べると、劇伴のバロック音楽・プロローグと3幕以上(9幕)から成る構成・長い上演時間・簡素な舞台劇風のセット・神話のモチーフ・悲劇&喜劇的な内容 などが、バロックオペラの要素となります。

ちなみに『ドッグヴィル』の上記予告動画の曲も、作中で何度も流れるバロック時代の音楽です。旧約聖書をモチーフにした、ヴィヴァルディの宗教音楽である「ニシ・ドミヌス」という曲です。

 

第一部 ジャスティン

第一部のポイント

第一部を鑑賞するうえで、押さえておきたいポイントを挙げておきます。

●ジャスティンは元々躁鬱病を患っていた。突飛で自暴自棄な言動や、突然の無気力無表情は、躁鬱病の症状である。

●ジャスティンは結婚式の最中、家族に自身の鬱状態について、何度も相談し、助けを求めようとしたが、ことごとくスルーされている。

●職場の上司や両親の性格など、ジャスティンの周囲の環境は良くない。幼少期から十分な両親の愛情を受けずに育った可能性も高い。また、おそらく仕事は厳しいパワハラ上司の下、ハードワークを強いられていたと考えられる。

●義兄の「これだけお金かけたんだから、絶対幸せになれよ」といった発言をはじめ、周囲の言動は鬱病の人を追い詰める内容が多い

●結婚や昇進はストレスであり、鬱病を悪化させる要素の一つである

●第一部は、ジャスティンの心が死んだ日を描いている

 

惑星メランコリアは、いつ誕生したのか?

ここは大事な所なのですが、読み違えている人が多いように思います。ほぼ間違いなく、惑星メランコリアは、第一部の最中に誕生した。と考えて良いでしょう。

根拠は、ジャスティンが空を眺める場面です。

作中では、ジャスティンが空を眺める場面が多く登場します。その場面は、かなりじっくり時間をとっており、意味がある大事な場面であると鑑賞者に印象付けています。第二部の、裸で空を眺める場面が、最たるものです。

●一度目:式場に入る前。赤い星であるアンタレスを見つける。

●二度目:ゴルフ場。夜空をじっと見つめる

●三度目:バルーンリリースの後。望遠鏡で宇宙を見た時のような、鮮明な映像が映し出される。宇宙空間にモヤモヤしたものが浮かんでいる

●四度目:結婚式後。乗馬中。アンタレスが消えている。

一つずつ解説していきます。

●一度目:式場に入る前。赤い星であるアンタレスを見つける。

アンタレスは、さそり座の心臓部にあたる明るい恒星で、夏に見える星です。心臓・赤く輝く・大きい・夏、といったワードから、生命力や活力を象徴していると思われます。青く、雹を降らせ、自ら光ることはできない惑星であるメランコリアとは対照的です。

 

●二度目:ゴルフ場。星空をじっと見つめる

⇒ここは物思いに耽っているだけとも取れますが、前後の流れを考えると「あー、憂鬱だなぁ」「地球の生命は邪悪だなぁ」といった事を考えていたのではないでしょうか。もっと言えば、「巨大惑星が現れて、もういっその事全部消滅させてくれないかなぁ」まで考えていたかもしれません。

 

●三度目:バルーンリリースの後。望遠鏡で宇宙を見た時のような、鮮明な映像が映し出される。宇宙空間にモヤモヤしたものが浮かんでいる

ここが最重要です。ここで映し出されているのは、分子雲です。

分子雲というのは、宇宙でガスや塵が密集している所の事であり、それが集まって星が誕生します。要は星のタマゴのようなものです。

結婚式で様々なトラブルやすれ違いを繰り替えす中で、ストレスや鬱を溜め込み、精神的な限界が近づく中、ジャスティンの鬱が結晶となって集まってきている、という表現であると思われます。あのモヤモヤはジャスティンの心のモヤモヤそのものです。

 

●四度目:結婚式後。乗馬中。アンタレスが消えている。

⇒巨大惑星であるメランコリアが、アンタレスを隠してしまった事を示唆しています。

 

要するに、バルーンリリースから結婚式の後にかけて、メランコリアが誕生していると推測できます。それはつまり、結婚式での出来事が最終的なトドメとなり、ジャスティンの積もりに積もって限界を迎えた「鬱」が結晶となり、惑星メランコリアを生み出した、と解釈できます。

そんな短期間で星が誕生するなんてナンセンスなのですが、先ほど説明した通り、この物語は寓話です。リアリティよりも、伝えたいテーマやメッセージが優先されます。

「『メランコリア』の物語自体がジャスティンの妄想である」という解釈でも別に良いと思います。本質はどちらも同じです。

「スチールブレイカー叔母さん」とは?

甥のレオはジャスティンのことを「スチールブレイカー叔母さん」と呼びます。

レオに対してジャスティンが名乗っていた異名なのでしょうが、意味としては、「鋼を壊す人=何でもできる、強い、型破り」みたいなニュアンスでしょうか。

 

ジャスティンとレオの仲が良かった事と、ジャスティンにも本来健全なユーモアがあった事、そしてジャスティンのコピーライターぶりを象徴しているのでしょうか。

物語終盤では、「スチールブレイカー叔母さんなら魔法のシェルターを作れる」と言ってレオを励ましたり、物語冒頭からレオが大事に持っていた短剣を使って魔法のシェルターを制作したりと、序盤と終盤で二人の関係を対応させています。

これはジャスティンがラストのラストで、ようやくレオとの関係性を取り戻した=本来の自分らしさと優しさを取り戻した、という事ではないでしょうか。

魔法のシェルター作りに関しても、レオに枝を削らせる事で彼に主体性を持たせている所に、ジャスティンの聡明さと優しさが感じ取れます(他にも意味があるかもですが、他のパートで解説します)。

ジャスティンのストレス度チェック

「ライフイベント法」という有名なストレスチェックがあります。

人生における様々なイベントや変化はストレスの原因となる、というものです。特徴的なのは、「良いイベントや良い変化」もストレスになる、という点です。

したがって、結婚や昇進もストレスになり、精神的健康を害する可能性があるのです。

過去1年以内に150点以上のイベントを体験した場合、翌年に健康被害が生じる可能性が50%、300点以上のイベントを体験した場合、翌年に健康被害が生じる危険性が80%になると言われています。

ではチェックしてみましょう。青が結婚式以前に体験していると思われるもの、赤が結婚式中に体験したと思われるものです。

青の合計が138点、赤も合わせると385点になります。

もともと躁鬱病を患っていたジャスティンにとって、結婚式がトドメになった事が良く解ります。

「別の可能性もあった」

新郎マイケルがジャスティンに別れを告げる際、「別の可能性もあった」とジャスティンに言い放ちます。「こんな事(破談)になったのはお前のせいだ」というニュアンスのセリフです。

躁鬱状態にあったジャスティンを追い詰め、トドメを刺したのはこの結婚式です。そしてジャスティンの次にキーパーソンだったのは、他ならぬマイケル自身です。ジャスティンにとって必要だったのは、彼女の本心に向き合い寄り添えるパートナーと、休養と、受診です。

家族やマイケルに対して、ジャスティンは何度もヘルプのサインを出していますが、ことごとく躱され、逃げられ、裏切られています。誰もジャスティンの心に正面から向き合い、寄り添おうとはしませんでした。その結果がアレです。

物語を最後まで見た後に再び聞くと、感慨深く、そして悲しいセリフです。そうなんです。別の可能性もあったはずなのです。

まぁ裏を返せば、「結果的にはどうする事もできなかった」と言い換える事もできます。

 

第2部 クレア

第二部のポイント

●世界の終末が近づくにつれて、クレアは情緒不安定になり、対照的にジャスティンは徐々に活気と常識を取り戻す

●第二部は、クレアの心が死んだ日を描いている(おかげで、ラストシーンの余韻は散々なものです)

 

何故ジャスティンの鬱は徐々に回復していったのか

これは映画監督が「悲惨な状況に陥ったとき、うつ病の人間は普通の人よりも冷静でいられる」という話をしていたそうなので、そうなのでしょう。

あとは、

・死によって現世の絶望から解放されるので、心が休まっていった

・クレアの家での休養が効果があった(クレアがどこからかオーバードーズ自殺用の薬を調達してきていたため、ジャスティンも抗うつ薬を服用していたのかもしれません)

・惑星メランコリアの存在によって、ジャスティンの鬱が解消されていった(前述の通り、惑星メランコリアはジャスティンの鬱の身代わりです。メランコリアが大きくなればなるほど、代わりにジャスティン自身の鬱は浄化される可能性があります)

・鬱病のために、死への覚悟ができていた

などが考えられます。ジャスティンとクレアの違いは、「死への受容が出来ていたか」「現世に執着するもの(=未練)があるか」だと思います。

 

ですので、もし村の様子を見る事ができたとすれば、人生の重要な節目を殆ど終え、死への受容を徐々にしながら余生を過ごすお年寄りの方なんかは、比較的穏やかに最期を迎える事ができていたのではないかと思います。

メランコリアは元々接近通過のはずだった?

これは次のパートでまとめて解説します。

ジャスティンは夜中に裸で何をしていたのか

ジャスティンが夜中に裸で横たわり、惑星メランコリアを眺めるシーンはとても印象的です。トリスタンとイゾルデのテーマも、曲の抑揚のタイミングを映像とバッチリ合わせて流されるこの場面。物語中でも重要なシーンであることは間違いありません。

「惑星メランコリアの正体」の章で説明した通り、ジャスティンが空を眺める場面は、物語中において重要なシーンです。その時、必ずメランコリアに関する何かが起きています。

おそらく、この時に、ジャスティンがメランコリアを地球に呼び寄せたのだと思われます。

このシーンまでは、”メランコリアは接近通過するだけ”という話しかありませんでした。しかし、このシーンの直後に、”メランコリアが地球に衝突するのではないか”という説をクレアが知るシーンが出てきます。

あの夜、ジャスティンが何を思っていたのかは想像するしかありませんが、メランコリアに対して何らかの思いを馳せていたのは間違いありません。

単に「美しい星。なんだか心地良い。」と見惚れていただけかもしれません。もしかすると「接近通過するだけじゃなくて、ぶつかってくれたら、私も楽になれるかもしれないのに」と望んだかもしれません。もしくは「辛い。憂鬱が私を支配している」という思いの裏に無意識的に存在する破滅願望や希死念慮が、メランコリアを呼び寄せたのかもしれません。

いずれにせよ、惑星ランコリアはジャスティンの心境とリンクしている、と考えるのが妥当でしょう。

ネットで見た感想で、「ジャスティンがメランコリアを誘惑しているように見えた」というのがありました。これも良い解釈だと思います。メランコリアと地球が衝突するまでの軌道は”死のダンス”と名付けられますが、この作品のテーマ曲である「トリスタンとイゾルデ」は、愛と死の物語です。つまり、”死のダンス”は”愛のダンス”でもあるのです。

 

Death of Dance 死のダンスとは

惑星メランコリアの軌道と地球の軌道が織りなす「Death of Dance=死のダンス」。

これは死の舞踏(=英語でDeath of Dance)という寓話及び概念がモチーフになっています。

死の舞踏というのは、14~15世紀のヨーロッパで流行ったものです。

wikipediaを参照すると、以下の通り。

死の舞踏は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという14世紀のフランス詩が起源とされており、一連の絵画、壁画、版画の共通のテーマとして死の普遍性があげられる。生前は王族、貴族、などの異なる身分に属しそれぞれの人生を生きていても、ある日訪れる死によって、身分や貧富の差なく、無に統合されてしまう、という死生観である。

読めば解る通り、この「死の舞踏」は、『メランコリア』の根底に流れるテーマと共通するものがあります。

「死の舞踏」は、「メメント・モリ=人は皆、いつか必ず死ぬ。死を恐れるな」と同様、多くの芸術作品のモチーフとなったり、倫理観のベースとなったりしています。

例えばクラシック音楽においても、「死の舞踏」をテーマにした作品が数多くあります。

こちらは、特に有名な、サン=サーンスの「死の舞踏」。

また、”惑星メランコリア(=鬱)が地球に迫ったり離れたりしながら最終的には衝突する”というのは、“躁鬱を繰り返しながら徐々に悪化し、最終的には自殺に至る”という躁鬱病の病態を表している、と考える事もできるのではないかと思います。

 

さらに、“死の舞踏=死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続ける”というのは、今回の作品中では全く触れられていない、地球上の人々の様子そのものを暗示していると思われます。

つまり、この映画の中では全く出てきませんが、「地球中が、死の恐怖を前に、半狂乱になって大騒ぎしている」という事を「Death of Dance」の一言で示唆しているわけです。

なぜ橋を渡れないのか

クレアの屋敷から村へ行くためには、橋を渡る必要があるのですが、ジャスティン・クレア共に、どうしても橋を渡れない、という描写が何度も登場します。

これはちょっと良く解らないのですが、次の章で触れる19番ホールの考え方と同様ではないかと思います。すなわち、「この物語は寓話であるために、ここまでしか世界は存在しない」もしくは、「もう死からは逃れられない」といった表現でしょうか。

19番ホールとは何か

本来18番ホールで終わるゴルフ場において、存在しないはずの19番ホール。OPでも登場する事から、重要なモチーフであることが想像できます。

「非現実」もしくは、「終わりの先にある世界」を象徴しているのではないでしょうか。三途の川のような、あの世の手前にある世界、みたいな。

つまり、『メランコリア』が寓話である事を強調しているか、既に「死」に片足ツッコんでいる状態である事を表現しているのか。

 

渡れない橋と同様、かなり作中において強調されている描写なので、もう少ししっかり踏み込んで考察したいのですが…。残念ながら良く解りません。

なぜジャスティンはビーンズの数を知っていたのか

結婚式のビーンズ当てゲーム。ジャスティンは答えを聞いていないハズなのに、何故か知っていました。これは物語中において、ジャスティンが特別な存在である事を示唆しているものと思われます。

「映画『メランコリア』はジャスティンの内面世界である。」でも良いし、

「ジャスティンは超能力を持っており、それによって惑星メランコリアを作り出し、地球へ呼び寄せた」でも良いし、

「惑星メランコリアと心を通わせた事で、特別な叡智を手に入れた」でも良いと思います。

本質はどれも同じです。

なぜ「テラスで一緒にワイン」は最低なのか

クレアが提案した、最後の迎え方ですが、ジャスティンに「最低」と一蹴されます。

ですが、パッと鑑賞しただけだと、「みんなで一緒に魔法のシェルター」と比べて、そんなにダメかな?」という疑問が沸きます。

そんな「テラスでワイン」が最低な理由ですが、ジャスティンが言いたかったのは、主に以下の3点ではないかと思います。

●現実逃避するな
●親としての役割を果たせ
●この期に及んで「映え」を気にしてどうする

●現実逃避するな:最期を眼前に迎えた状態での、飲酒は”逃げ”です。

●親としての役割を果たせ:レオの事を全く考えていません。ましてや、子どもを差し置いて自分は飲酒しようとしています。

●この期に及んで「映え」を気にしてどうする:クレアは「正しい方法でやりたい」「ステキに終わらせたい」とも話しています。誰にとって「ステキ」なのでしょうか。自分が望むシチュエーションというよりも、他者から見てどうかを考えているように思えます。誰も見ていないのに。どうせ皆いなくなるのに。

そういった、相対的幸福や物質的幸福を求める姿勢を、ジャスティンは非難しているのではないでしょうか。

魔法のシェルターとは?

そんなクレアの案を最低と言い放ったジャスティンが提案するのが、「魔法のシェルター」です。クレアの案とは対照的に、レオの恐れに寄り添うように、またレオでも一緒に参加できるように、最後への準備をしていきます。

この役割は、途中までは義兄のジョンが果たしていました。レオと同じ目線に立ち、レオと一緒に望遠鏡を覗き、レオ自身が作った装置を使って天体観測を進める。

ジョンが亡くなってしまい、クレアが取り乱してしまっている中、ジャスティンが代わりに親の役割を果たしている、というわけです。ジャスティン自身が持ち合わせている、本来の優しさや機転を、最後の最後でようやく取り戻すことができた、とも言えます。

「魔法のシェルター」のおかげで、ジャスティンとレオは最期まで自分自身の力でできる事を行ない、最後まで正気を保ち、自分らしさを保ったまま、最期を迎えることができました。

しかし、はたして「魔法のシェルター」自体は、単なる気休め、子どもだましなのでしょうか?

ラストシーンは、この物語の最重要シーンの一つです。そこにある「魔法のシェルター」は、何らかの意味を持つと考えるのが妥当なように思います。

作中において、ジャスティンには特別な力がある事が示唆されている事もあり、本当に何らかの力や効果があるのではないでしょうか。

全てを破壊する惑星メランコリア。世界の終末。これはキリスト教に擬えれば「最後の審判」です。

最期まで自分らしさを保ち、諦めず、周囲を気遣う。それにジャスティンの魔法が加わる事で、もしかすると彼女達は天国へ行けるのではないでしょうか。

馬小屋でのジョンの死は、キリスト教を否定しているようにも見えますし、そんなキリスト教的救済は否定されるかもしれませんが、何らかの形で、魔法のシェルターが彼女たちを救ってくれていたらいいな、と私は思います。

しかし、そう考えると、最後の最後で正気を保てず手を離してしまったクレアの行く末を想像する事で、また憂鬱になるのですが…

 

これはジャスティンにとって、ハッピーエンドなのか

ジャスティンの最後の表情は、それなりに落ち着いてはいますが、恍惚や安堵ではありません。口元は軽く震えています。現世に絶望し、死を覚悟しているとはいえ、少なくとも不安はあるのです。人間ですから。レオやクレアの事も案じているかもしれません。

というわけで、ジャスティンにとって死が救済になったという見方は正しいのでしょうが、純粋なハッピーエンドというよりは「他に方法が無かった」というニュアンスの、消去法的ハッピーエンドという感じではないでしょうか。

ジャスティンだって、できれば普通に自分らしく生きたかったはずです。

 

第一部と第二部の対比

第一部と第二部は様々な対比関係があります。

ジャスティンとクレア。一般的には一番幸せな日である結婚式と、一般的には一番不幸せな日である命日。第一部はジャスティンの心が死ぬ過程(そしてメランコリアが生まれるまで)の話、第二部はクレアの心が死ぬ過程(そして地球が亡くなるまで)の話。

「時々あなたの事が憎たらしくなる」とは?

第一部と第二部で一度ずつ出てくるクレアのこの印象的なセリフ。これも対比関係にあります。

第一部では、自由奔放(躁鬱)で結婚式を滅茶苦茶にしたジャスティンを蔑み、見下すセリフです。妹に対する優越感を表現しています。

一方、姉妹の立場が逆転する第二部では、世界が終わろうとしているにも関わらず、妙に落ち着き払っているジャスティンへ嫉妬するようなニュアンスのセリフです。妹に対する劣等感を同じセリフで表現しています。

この対応&対比関係にある「時々あなたの事が憎たらしくなる」というセリフが表現しているアンビバレンスな感情は、クレアの人間らしさを象徴しているとも言えますし、妹に対する支配欲を感じ取る事もできます。

妹のクセに。私の理解・予測できない言動を取るな。本当は自分に自信がない。等。

「時々あなたの事が憎たらしくなる」というセリフからは、そういった感情が読み取れるように見えます。

 

更に深読みすれば、両親の人格に、かなり問題がありそうなこの姉妹。姉のクレアも、健全な心理発達を遂げたとは言い切れません。

富豪と結婚し、子育てを生きがいとし、妹と自分を比べて憎しみを抱く。クレアは自身のアイデンティティー形成が不十分なようにも見えます。そのため表面的には見せかけの自信を持ち適応的ですが、世界の終末が近づくにつれて内面の芯の弱さが見えてくるのかもしれません。

 

おわりに

『メランコリア』には、キリスト教のモチーフと思われるものが多く存在します。

馬小屋で自殺したジョンは、馬小屋で誕生したキリストと対比されていると思われます。

新郎マイケルが購入したのがリンゴ園、というのも意味深です。

きっと他にも様々なモチーフが意味を持っているのだと思われます。

物語は割とシンプルですが、様々な示唆に満ちた、奥深い作品だと思います。

この作品の監督は”奇才”と呼ばれているそうですが、なかなかどうして、論理的で文学的な作品を作る”職人”であると私は感じました。

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syro:生まれも育ちも長崎市です。二児の子育て中。 趣味はインドア全般。音楽以外ではスマホ収集とトライエースと三島由紀夫と遠藤周作が特に好きです。 好きな作曲家はメンデルスゾーンと葉山拓亮。

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