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はじめに
1996年公開のディズニー映画《ノートルダムの鐘》。
主人公は醜い容姿で育ての親に虐待されており、さらにヒロインは最終的にイケメンのサブキャラと結ばれるという、ディズニーアニメの中でも異色の作品です。
しかし美しい映像と素晴らしい音楽、そしてテーマ性の強いストーリーが魅力的であり、ファンも多い作品であると聞きます。
この作品から醸し出されるメッセージは、現代社会にも深く突き刺さります。
特にOPテーマは素晴らしい出来です。個人的にディズニー音楽の最高傑作であると思います。
今回はそんな《ノートルダムの鐘》に隠された(?)主題に迫ります。
キーワードは「抑圧と解放」・「ノートルダム大聖堂は【心】の象徴」の二つとします。
抑圧と解放
15世紀パリの「抑圧と解放」
《ノートルダムの鐘》の舞台は15世紀のパリです。当時、色んな国を自由に渡り歩く「ジプシー(ロマとも呼ぶこともあります)」と呼ばれる移民型民族がいました。ジプシーは占いやロマ音楽・奔放で開放的な人生観など、独自の文化を持つ民族でした。
有名なクラシック・オペラの《カルメン》も、19世紀のヨーロッパを舞台とした、奔放な恋愛観をもつジプシーのカルメンが主人公の作品です。
しかしそんな独自の文化を持つジプシーは迫害されることも多く、ユダヤ人迫害で有名なアウシュビッツ収容所にも、多くのジプシーが収容されました。
《ノートルダムの鐘》でも、ジプシーは派手な衣装を身にまとい、自由奔放で芸達者な人々として描かれていますが、抑圧・弾圧の対象とされています。
《ノートルダムの鐘》の語り手はジプシー達のリーダーである人形遣いです。
『ジプシー狩りによって命を落とした女性の子ども(カジモド)をフロロー判事が引き取り、やがて成長したカジモドを中心として革命が起きる』という物語を子ども達に披露する、という内容になっており、カジモドの物語は作中作のような構成です。
【ジプシー狩りの悲惨さと、それに打ち克った歴史を、自身が得意とする芸を利用して子ども達に伝承している】という感じになっています。
物語中において、「ジプシー」と「ジプシー狩りを行なう勢力」は、それぞれ「解放の象徴」「抑圧の象徴」として対比されています。色調においても、ビビッドでカラフルでジプシーと、黒を基調とした「ジプシー狩り勢力」で対比されています。
一方、本作においてカトリック教会は、抑圧的というよりも「平等・寛容」の象徴として描かれています。大聖堂内は争う事ができない【聖域】であり、また重要な場面で何度も映される、荘厳でカラフルなステンドグラスが、それをうまく表現しています(本作において、カラフル=自由で寛容を意味します)。
カジモドの部屋にはノートルダム広場のジオラマがありますが、そこに飾ってあるカラフルなサンキャッチャーは、自由を願うカジモドの想いを表しています。
よって、《ノートルダムの鐘》に登場する登場人物は、
・開放的で自由なジプシー
・抑圧的なジプシー狩り勢力
・日和見的な大衆
・倫理的で中立&平等な人物(カジモド、フィーバス隊長、大聖堂の司祭など)
の4種類に大きく分けられます。
物語序盤の道化の祭りの場面は、「日和見的な大衆」を象徴したシーンです。カジモドを気持ち悪がったかと思えば、祭りの司会(ジプシーのリーダー)に乗せられて祭り上げ、更にはジプシー狩り勢力に扇動され、再び一転してカジモドを迫害し始めます。
現代の「ネットリンチ」問題にも通じるものがあります。
余談ですが、《ノートルダムの鐘》では、ジプシー文化独自のロマ音楽も使用されており、ジプシーのエスメラルダの影響で主人公カジモドに新しい価値観が芽生える場面の曲「ガイ・ライク・ユー」は、従来の宗教音楽に現代音楽とロマ音楽のエッセンスを混ぜた曲調になっています。
まさしくカジモドの心境の変化を音楽によって表現しています。
カジモドの「抑圧と解放」
カジモドはフロロー判事によって大聖堂に隔離された生活を送っています。
大聖堂は誰しもが守られる”聖域”である一方で、カジモドには自由がありません。
冒頭でガーゴイルが、「彼は20年間病気をしたことがない」と話していますが、これは【19世紀の西洋ではコレラが流行していたにも関わらず、カジモドは他人との接触が全くないために感染症には罹らない】という描写です。
またカジモドは片目が腫れぼったく痣もあり、フロロー判事に暴力を振るわれた過去を示唆しています。
冒頭の「鳥のヒナが大聖堂から飛び立ち、それをカジモドが見送り羨む」場面は、ラストの「カジモドが大聖堂から外に出て自由になる」場面と対応しています。OPで既にラストへの伏線が貼られているのですね。
最終的に、カジモドはフロロー判事を倒し、自由を手に入れます。これは物語によくある、親を乗り越えて大人になる「父殺し」というやつです。ライオンキングとかと同じ。
《ノートルダムの鐘》は、カジモドが育ての親や社会からの抑圧に立ち向かい、自由と解放を手に入れる物語といえます。これは後半の章で更に深く掘り下げます。
フロロー判事の「抑圧と解放」
フロロー判事は前述の通り「抑圧の象徴」として描かれています。
ジプシー女性を「不埒」と言い放ち、お祭りを嫌っています。カジモドに対しても、まさしく毒親といった感じの抑圧的で支配的&虐待的な関係を築いています。
しかしフロロー自身も、保守的なカトリック的価値観に捕らわれ抑圧されており、他者を管理・支配し断罪する事で自身のサディズムを昇華し正当化させています。
エスメラルダに対しても、愛情を歪んだ形で発現させてしまいます。カジモドに対してもそうですが、対象を支配する事に喜びを感じており、倒錯的な価値観を有しています。
《ノートルダムの鐘》のアリアの中でも特に有名な「罪の炎」は、フロロー判事の倒錯した愛情を表現した曲です。第2幕のオープニング曲になっています。
この事からも、後半の第2幕はフロロー判事に焦点を当てている事が解ります。
目の敵であるジプシーに恋心を抱いてしまった事に対して「私を惑わす不埒なジプシーが悪い」と結論付けます。自己愛的であり、精神的に未熟です。心理学的にいうと、防衛機制の”投影”にあたります。
また、エスメラルダの事も「私一人の物に」と歌っており、独善的で、自己愛的で、支配的です。愛する相手の幸せを願う気持ちなんでこれっぽっちもありません。
ちなみに「罪の炎」曲中で、フロロー自身が炎に包まれてる場面がありますが、これは自身の感情が制御できない状態になっている事に加えて、自身の最期を暗示するものとなっています。
ノートルダム大聖堂は「心」の象徴?
ノートルダム広場に大きく聳え立つ大聖堂は、物語の主な舞台であり、とても重要なモチーフです。私はこの大聖堂は以下の比喩だと考えます。
1.カジモドの心の壁
2.親からの支配や束縛
3.社会との隔絶(社会との関わりを閉ざす物であると同時に、外的要因から守るものでもある)
《ノートルダムの鐘》のラストシーンは、”カジモドが大聖堂から外に出る”という、地味なものですが、大聖堂が上記のメタファーであると考えれば、納得のラストです。
これから、もう少し細かく解説していきます。
「鎖に縛られているのは、あんたの心よ」
物語のクライマックスシーンで、鎖に捕らわれ全てを諦めたカジモドに対して、「縛られているのはあなたの心よ」と石像が指摘する場面。これは《ノートルダムの鐘》のテーマを包括する、とても重要な発言です。
カジモドは大聖堂に幽閉されている状態ですが、基本的には中で自由に暮らしています。また大聖堂内ではただの石であるガーゴイルたちと会話する事もできます。
カジモドは大聖堂の敷地内ではダイナミックなアクロバットで自由自在に移動できますが、道化の祭りの時、大聖堂の敷地から出たとたんにロープが解けてカジモドは失敗してしまいます。これも”大聖堂=カジモドの内面世界”を裏付けています。「自分の心の中では空も飛べるけれど、現実ではそうはいかない」という描写です。「社会では自分ルールは通じないし、思い通りにはいかない」という意味でもあります。
しかし、実はこのアクロバットに失敗するシーンが、終盤でカジモドがエスメラルダを助けに行くシーンの前フリにもなっています。
物語中盤で、エスメラルダがカジモドの部屋に入り込む場面は、エスメラルダがカジモドの内面に触れ、理解し、本音の心を通わせるとても重要なシーンです。エスメラルダの「ここ、どこなの?」「これみんな、あなたが作ったの?」というセリフは、そこが単なる小部屋ではなく、そこが特別で異質な場所(=カジモドの”心の中”)である事を示唆しています。
カジモドがエスメラルダに部屋を案内する場面は、自己開示です。ここでカジモドは、自分の内面を初めて他者に曝け出します。
その後エスメラルダがカジモドを外の世界へ連れ出そうとしますが、カジモドは「もうここから出たくない」と拒否します。それに対してエスメラルダは「それじゃあ、あたしから来る」と返答し、自身のお守りを手渡します。自分の殻に閉じこもろうとするカジモドに対して、無理やり連れだすのではなく、彼の居場所を尊重したうえで、交流を図ろうとします。とても良い対応です。
このシーンでは、「このお守りを付ければ、街はあなたの物になる」というエスメラルダの発言もあります。初めて自身の内面に触れたエスメラルダと、初めて他者から貰った物体であるお守りは、カジモドの内面世界と社会との間に生まれた、初めての接点なのです。
ここまで述べれば、最後にカジモドとエスメラルダが結ばれないラストも納得が行きます。《ノートルダムの鐘》はカジモドが社会とつながる物語です。それは愛する人と結ばれる事よりも根源的な問題であり、カジモドがパートナーを見つけるのは、それよりも上の段階の問題で、まだしばらく先の話になるのです(なので、続編でようやくカジモドにパートナーができるのも必然である、という事です)。
それにカジモドがエスメラルダと結ばれてしまうと、肝心のテーマがぼやけてしまいます。大事なのはカジモドが束縛的な親を克服し、心を社会に開き、そして社会がそれを受け入れた事なのです。それはパートナーと結ばれる事よりも、根源的で大事な事なのです。
“カジモドが大聖堂から外にでる”という一見地味なラストシーンにも、ちゃんとそういった理由があるのです。《ノートルダムの鐘》は、カジモドが大聖堂(=心の壁であり、親の支配であり、社会からの隔絶でもある)から自由になり、外へ出るための物語を描いた作品です。
話を戻しますが、エスメラルダと別れた直後、勝手にカジモドの部屋に入り込んだフィーバス隊長に対してカジモドが怒り狂います。これはカジモドの内面に無許可&土足で踏み込んでいるわけで、警戒し拒絶するのも当然というわけです。エスメラルダを庇うためなら、「知らない、ここにはいないよ」と言えば良いだけの話なのです。
ガーゴイルはカジモドの[防衛機制]
カジモドの友人であるガーゴイルの石像たち。彼らはおそらく、カジモドのイマジナリーフレンド(心の中に作り出した架空の友達)であると考えられます。
根拠としては、石像たちはカジモド以外の人物との交流は全くなく、またこの石像以外に無機物に生命が宿っているような描写は物語中には全くありません。
またガーゴイルたちは、ネガティブなカジモドをフォローしたり、彼の本音を代弁したり、迷う彼の背中を後押しするような発言を常に行ないます。
本物のノートルダム大聖堂にもガーゴイルの石像がありますが、それは大聖堂へ雨水が入るのを防ぐ雨どいの役割を果たしており、大聖堂を機能的にも守っている存在なのです。
「大聖堂はカジモドの心の壁である」という仮説をずっと話していますが、そんな大聖堂を守る役割を持っているガーゴイルに関しても、同様の事が言えます。つまり、ガーゴイルたちはカジモドの心を守っているという事です。
心理学や精神医学に「防衛機制」という言葉があります。大きなストレスや精神的負担が起きると、人間には自分の精神を守るために様々な反応が起こります。憎しみが愛情に反転する「反動形成」や、大きなトラウマをすっかり忘れてしまう「抑圧」、自分に都合の良い言い訳を作り出す「合理化」などがあります。
ガーゴイルたちは、孤独な生活を送るカジモドが作り出した「もう一人の自分」であると考えられます。これは防衛機制の中の、もう一つの人格を作り出す「解離」に該当するものと思われます。
ノートルダム大聖堂を風雨から守る役割を果たすガーゴイルの石像。《ノートルダムの鐘》の物語では、精神的に引きこもっているカジモドの心を守る役割を果たしているのです。
少し脱線しますが、カジモドにとって石像はイマジナリーフレンドであり、防衛機制の”解離”にあたると前述しました。そんなカジモドを育てたフロローは自己愛に満ちており、精神的に未熟です。つまり《ノートルダムの鐘》は「精神的に未熟な親が、子の自立を妨げており、それによって子どもは強い精神的負担を強いられていたが、子ども自身の力でそれを乗り越えた物語」と捉える事もできます。
「ここは聖域だ!」とは?
終盤のクライマックスシーンで、エスメラルダを救出したカジモドが叫ぶ「ここは聖域だ!!」という言葉。
以前の場面で【大聖堂の中は聖域で、争う事ができない】という描写があるため、「もう自分やエスメラルダには手出しできないぞ=私の勝利だ」といった内容と思われるのですが、この状況で高らかに叫ぶ言葉としては何だか違和感があります。
しかし、【大聖堂=カジモドの心の中】と考えると、合点が行くのです。
つまり、「ここは聖域だ」という発言は、カジモドがエスメラルダを守り切ったという意味だけではなく、彼が【内面の自由】【思想の自由】を主張し、その自由を勝ち取った宣言であると捉える事ができます。
そんな【内面の自由】を主張し勝ち取った後の争いは、言うまでもなく”自由を守るための闘い”であり、大聖堂へ無理やり侵入するフロローの行動は、これも言うまでもなく【内面の自由】を侵害しようとする行為です。
大聖堂から外に出るラストシーンも、単に物理的に自由となったという意味ではなく、”心の解放”を象徴した名シーンです。
《ノートルダムの鐘》に学ぶ共生社会
カジモドは”出来損ない”という意味であると冒頭で明言されており、自身でも「僕は普通じゃない」と述べています。
カジモドは言うまでもなく障がい者や被差別者を初めとした”社会的弱者”の象徴です。
カジモドはノートルダム大聖堂の鐘を鳴らす仕事に就いています。
これはカジモドの唯一の社会とのつながりであり、重要な仕事の一つであるといえますが、人々は誰が鐘を鳴らしているか、知りません。隔離された場所で一人で仕事をさせるというのはもちろん望ましい事ではありません。大聖堂は虐げられた者や弱者を守る場所ではありますが、自由がありません。
現代社会では障害者雇用促進が積極的になされていますが、これは「障がいを持つ方を特定の作業所に隔離して作業をさせる」といったものではなく、「誰しもが自分の能力を発揮でき、安全に働ける職場環境を作っていこう」といった趣旨のものです。
「誰しもが自由に、同じ場で、自身の得意な能力を発揮して生活する」というのが理想的な共生社会といえるでしょう。
《ノートルダムの鐘》において共生社会は、”人は皆神の子であり、神の下において皆平等である”というキリスト教的価値観で語られています。
音楽の解説
《ノートルダムの鐘》主題の解説
OPテーマのメインとなるメロディ(主題)は、様々に形を変えて物語中に何度も登場します。
(1).監獄が登場する場面で重苦しい主題のメロディが再登場し、映像と併せて、監獄と大聖堂の対応&対比関係を強調しています。
(2).カジモドがエスメラルダと心を通わせた後に鐘を鳴らすシーンでは、明るい長調に移調して再登場し、カジモドの幸せな心境やストーリーの好転を表現しています。またこのシーンはちょうど物語の中間地点にあたり、第1幕のエンディングとしても主題が使用されています(オペラは全2幕から成るのがお作法であり、それに倣っているものと思われます)
(3).フロローがエスメラルダへの恋心を吐露するアリア「罪の炎」では、主題のメロディがよりメロディアスになって再登場します。フロローの歪んだ強い感情が表現されています、更に主題のメロディを再現している途中で転調し一段階雰囲気を変える事で、エスメラルダへの愛情が憎しみに反転する様子をうまく表現しています。またこの場面は第2幕のオープニングにあたるため、後半戦の始まりとして主題のメロディが使用されています。さらに、直前に流れた、カジモドの明るく希望に満ちた(2)の主題のメロディと対比されています。
(4).火刑にされるエスメラルダから、大聖堂に捕らわれたカジモドに視点が映る場面で主題が再登場します。「罪の炎」と同様の短調のメロディであり、「罪の炎」で予告された状況がいよいよ現実になった事を表現すると共に、ここが物語のクライマックスである事を強調しています。
(5)市民がジプシー狩りに対して反乱を起こし、ノートルダム大聖堂が炎に包まれる場面。ここで登場するのは「罪の炎」ではなくOPの方のメロディであり、大聖堂の荘厳さを表現しているだけではなく、カジモドたちが勝利した事を表現しています。
ノートルダムの「レクイエム」
《ノートルダムの鐘》のOPの歌ですが、歌詞は宗教音楽の「レクイエム」をモチーフにしています。「レクイエム」は死者を悼む歌で、共通の歌詞を元に、様々な作曲家がそれぞれの「レクイエム」を作曲しています。モーツァルトやヴェルディの「レクイエム」が有名です。
《ノートルダムの鐘》OPに出てくるレクイエムの曲は「キリエ・エレイソン(=主よ、憐みたまえ)」と「ディエス・イレ(=怒りの日)」の二曲です。
「キリエ・エレイソン(=主よ、憐みたまえ)」というのは、主に①神様を賞賛する②罪人が憐れみを乞う の2つの意味で使用されます。
《ノートルダムの鐘》OPでは以下の2か所で「キリエ・エレイソン」が流れます。
a.フロロー判事がジプシーを捕らえる場面
b.フロロー判事の前に大聖堂が聳え立つ場面
順番に解説します。
a.フロロー判事がジプシーを捕らえる場面:フロロー判事がジプシーを罪人だと決めつけ、逮捕する場面です。
Ⅰ:フロロー判事の立場からすれば、神の名のもとに罪人を捕まえている(=①神様を賞賛している)といえますが、
Ⅱ:客観的に見ると罪を犯しているのはフロロー判事の方です。罪の自覚が無いフロロー判事に代わって、音楽が神に憐れみを乞いている(=②罪人が憐れみを乞う)のです。
つまり「キリエ・エレイソン」のワードを使用する事で、フロロー判事の倒錯的で歪んだ宗教的価値観を炙り出しているということです。
b.フロロー判事の前に大聖堂が聳え立つ場面:神を騙るような言動を見せるフロローに対して、その罪を咎めるように大聖堂が立ちはだかります。aの場面と同様、なんちゃって神様よろしくの判事様と、本物の神的存在を対比させています。
また「キリエ・エレイソン」はフロロー判事のアリア「罪の炎」でも登場します。エスメラルダへの叶わぬ恋から、「私の物にならないのなら、地獄の炎で焼いてやる」と宣言する歌です。
これもエゴに捕らわれ、他者を断罪しようとするフロローの神騙りっぷりと、それを戒める本当の神、という同様の構造になっています。映像面でも、黒く歪んだ十字架の陰が出てきたりと、フロローの歪んだ宗教的価値観が強調されています。
その後も、ジプシーを迫害する場面で何度も「キリエ・エレイソン」が流れます。上記と同様の演出です。
次は、もう一つの曲「ディエス、イレ」についてです。
「ディエス、イレ(=怒りの日)」というのは、いわゆる「最後の審判」の事であり、世界が終焉を迎える時に、天国へ行くか地獄へ行くかを神が審判することを指しています。
《ノートルダムの鐘》のOPでは、逃げるジプシー女性をフロロー判事が馬で追いかけ命を奪い、さらに赤ん坊のカジモドを井戸に投げ捨てようとする場面で使用されます。これも「キリエ・エレイソン」と同様、フロロー判事の側からすれば、罪人を自らの手で審判し裁くという意味が込められていますが、客観的に見れば裁かれるべきなのはフロロー判事の方です。
この場面でのフロロー判事の「これは悪魔だ。地獄に戻してやる」というセリフはとても重要です。まさしく、おこがましくも最後の審判を自身の手によって施そうとしています。
つまり「ディエス、イレ」もまた、
Ⅰ:フロロー判事の間違った宗教的正義感
Ⅱ:それに対する戒め
という2つの対照的な事象を表現しています。
言い方を変えると、この「ディエス、イレ」は、
Ⅰ:フロロー判事の視点から見れば、「ジプシー女性の死(=罪人の地獄行き)」を暗示しており、
Ⅱ:第3者の視点から見れば、「フロロー判事の死(=罪人の地獄行き)」を暗示している
とも言えます。果たして本当の罪人は誰なのか、という歌なワケです。うーん、深い!!
「ディエス・イレ」は後半でも、ジプシー狩りを行なう場面で登場します。これも今までと同様、ジプシーを罪人と決めつけ断罪する人たちと、それを戒める神の視点(本当の罪人はお前達自身だ)が表現されています。
とここまで書いた所で、こんなブログを見つけました。劇中歌の訳と解釈を掲載しています。他の合唱曲もレクイエムや聖書の文をモチーフにしているようで、物語との関連もありそうです。
キリスト教の視点から、もっと踏み込んだ作品の考察ができそうです。誰かがしてくれる事を願います笑
終わりに
これらをまとめると、《ノートルダムの鐘》は、以下の3つの【自由&解放】をテーマにした物語であるといえます。
①被差別者であるジプシーや異端者(カジモド)を主軸として、社会が自由と解放(=libération)を手に入れる物語
②カジモドが抑圧的な親に打ち勝ち大人になり、自由な生き方を手に入れる成長物語
③カジモドが精神的な引きこもりから脱し、心を開き解放する物語
《ノートルダムの鐘》を鑑賞した時、きっと人はそれぞれ自身が抱える「抑圧」をそれぞれのテーマに重ね合わせる事でしょう。
映画を観る人次第で受け取るメッセージも変わり、言い換えればどんな人でも楽しめるストーリー。それこそが《ノートルダムの鐘》の懐の広さであり、魅力でもあります。
そして、私は先日(2023年11月)TVでこの映画を鑑賞したのですが、つまりそれは、《ノートルダムの鐘》の主題が、いつの時代にも共通する、普遍的なテーマであるという事です。