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モルダウ/さだまさし「男は大きな河になれ」

今回はさだまさしの「男は大きな河になれ~モルダウより~」です。

 

さだまさしは私の地元の長崎市出身の歌手です。

長崎では、その年に亡くなった人の名前や写真等を乗せて飾り付けをした船を親族や親しい人が川まで運ぶという、伝統的なお盆の行事である「精霊流し」というものがあります。

それを題材にしたさだまさしの曲「精霊流し」が有名ですが、さだまさしのお母様が亡くなられた年にはとても大きな精霊船が流れました。

 

精霊流しではお盆に大量の爆竹や花火が鳴らされるため、長崎ではお盆に一番花火が売れます。そんな「長崎の花火屋のお盆」に密着したNHKのドキュメント番組で、なんと偶然さだまさしそっくりの御兄弟が花火を買いに来るという珍事もありました。

 

フォークソングの印象やライブのMCが長い事などで知られるさだまさしですが、クラシックにも大変造詣が深いアーティストです。長男はヴァイオリニスト、長女はピアニストとして活動しています。

今回紹介する楽曲の他にも、

ショパンのノクターン第2番⇒風が伝えた愛の唄

サン=サーンスの白鳥⇒セロ弾きのゴーシュ

ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」第2楽章⇒ひと粒の麦~Moment~

等、クラシックのメロディを引用した楽曲を制作しています。

今回紹介する「男は大きな河になれ」も、原曲のモルダウに真摯に向き合い、独自の解釈も加えた名カバーになっています。いやホント。名曲ですよこれ。

 

ポップスのエッセンス

歌メロは基本的に原曲をなぞったものになっていますが、

A→B→A’の構成を取る原曲に対して、B→A’への流れをより劇的にするために、一部A’への弾みをつけるオリジナルの旋律を加えています。

それによりA’がサビとして機能しており、ソナタ形式的にも関わらずA’がしっかりサビの役割を果たしています。クラシックとポップスの良いとこ取りです。

 

また歌詞も、原曲の大自然や「海」と「川」のモチーフを流用しながら、男と女のあり方・そして人としての生き様を語るフォークソング風の歌詞に落とし込んでいます。

 

 

独自の前衛的な構成

この「男は大きな河になれ」は、イントロからもろフォークソング調の曲で始まります。徐々にバイオリンや笛の音が入ってきて、1番が終わるとオーケストラサウンドも合流します。

2番が終わると、最後の3番はついにヴォーカルがなくなってしまい壮大なオーケストラサウンドになります。

1番がフォーク、2番がフォーク&アンサンブル、3番が歌無しのフルオーケストラというかなり斬新な構成です。徐々にスケールが大きくなっていきます。

 

原曲の「モルダウ」は、チェコのモルダウ川の傍流が主流に集まり大きな川になるという流れを1曲を通して表現していますが、

この「男は大きな河になれ」はフォークソングの手法も用いて、小さな流れがやがて大きな流れになっていく様子を表現しています。イントロとラストでは曲の印象が全く異なります。

 

 

フォークソングとクラシック

そもそもフォークソングというのは日本では哀愁漂うアコギサウンドというイメージですが、

本来「フォークロア」「フォルクローレ」等と呼ぶように民族音楽の事を指します。現在では民族音楽風のメロディを現代楽器で歌うスタイルを「フォークソング」と呼ぶことが多いようです。

 

またクラシックも民族音楽をベースにしたものも数多くあり、言ってしまえば「フォークソング」も「クラシック」も同じ源流から派生したジャンル という側面もあります。

 

日本のフォークソングはアメリカなどのフォークソングを参考に日本独自のメロディセンスをもって発展したジャンルですが、「男は大きな河になれ」は、その日本のフォークソングと、チェコの民族音楽を題材にした「モルダウ」がやがて合流し大きな川になるという曲でもあります。

 

それはつまり「源流は同じでも、それぞれ独自に分流し進化したヨーロッパのクラシックと日本のフォークソングを再び合流させる」という壮大なスケールの曲である、という事です。

ジャパニーズフォークサウンドから徐々にオーケストラサウンドに流れていく「男は大きな河になれ」は、モルダウ川の流れを音楽ジャンルの川に擬えた深い解釈の元に作られた曲である事が伺えます。

 

「世界旅行」をテーマにしたコンセプト・アルバム「夢回帰線」に収録されています。2004年リリース。さだまさしの代表曲の一つである「風に立つライオン」も収録。

 

 

しかしこの曲、「男は大きな河になれ」と何度も語りかけた後に、最後は歌い手すら大きな流れの中に飲み込まれて居なくなってしまうという曲展開になっています。最後に消えてしまう事で一個人のちっぽけさがより強調されるような気がして、切ない余韻を残して幕を閉じるような印象を私は受けました。

原曲の「モルダウ」のラストは明るく転調して締めますが、「男は大きな河になれ」は最後まで短調の哀愁漂うメロディのままでもあります。これは意図的な構成でしょう。

 

実際にはどういう意図を持って制作されたのか、とても気になる不思議な曲です。

 

 

 

同じくどフォークになってしまっている斉藤和義のモルダウと、

たいへんオシャレに仕上がっている平原綾香のモルダウの記事も合わせて読んでみて下さい。

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モルダウの流れは、こうやって様々にカバーされ、再び分流しながら流れていくのです。

 

2記事に分けて原曲「わが祖国」「モルダウ」の魅力の秘密についても考察しています。

 

 

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syro:生まれも育ちも長崎市です。二児の子育て中。 趣味はインドア全般。音楽以外ではスマホ収集とトライエースと三島由紀夫と遠藤周作が特に好きです。 好きな作曲家はメンデルスゾーンと葉山拓亮。